赤い人のブログ

音楽や、教育、アニメ・ゲーム、その他諸々の記録・整理

すずめの記事の続き

・いつ缶埋めたか問題

 

そもそも、絶賛トラウマ中にあんなもん埋めれんやろ、という気がしていたのだが、

会った後やな、あれ。

 

おそらく無意識的に納得したうえで、幼かったすずめも「いってきます」したんじゃないか。だから、「だいじ」を埋めた。

 

いまのところこんな風に腑に落ちている。

 

 

〇”不在”について

全作品観たわけではないが、”不在”を描く作家ということでいいのだろうか。

自分を(強く)規定してくれる(かもしれない)存在の不在。

むしろ、不在だからこそ自分を強く規定してくれる存在。

 

何かのアニメで聞いた気がする

「みんな誰かにとっての何者かでありたい」

 

内田樹

他者の要請によってしか自分が何者であるかは規定できない

ということを述べている

 

誰かの・何かの「お前が必要だ」という声を聴く・感じ取ることで

自分が何をすべきかがわかる

 

キリスト教でいうところの”ミッション”の感覚か。

 

だからすずめも後ろ戸を閉じた

閉じ師になることを”選んだ”のではなく

 

目の前に泣いている子供がいたら自然と声をかけるように

自分の子供がないていたら自然と抱き寄せるように

 

自然とやっていたことではないか。

 

※「何者であるか」と「何をするのか」は分化したいという立場だがいまはこの表現がしっくりきている。矛盾。これも宿題。

 

 

生徒たちが「自分の軸」や「自分の本当にしたいこと」というものが、どこかに”ある”という前提で話し合いをしている姿を目にした。

 

一見眩しい光景だったが、そんなものなくていいんだよ、と言ってやりたくもなった。

すずめの戸締まりについて

公開日に観た。

ネタバレのつもりはないけど、一応注意を。

 

 

 

 

 

……あぁ、11日ね。

阪神淡路のやつで死んでた可能性がある身としてはちょっと不意打ちで辛かった。

 

 

〇まず何となくの雑感

 

・劇伴はそろそろ限界が。だから2人体制ね。

・この景色を見せたい!はわかっているけど、さすがに食傷気味。

・日本神話感をそこまで強調する必要が?過去2作ぐらいでよくない?

村上春樹

・足へのこだわり?というか興味を感じられた。

・すずめは陸上部?でも帰宅部っぽさも。

・教員志望ズの教科が知りたい。ちゃんと観ればわかるか?

・その缶はいつ埋めたんだ?

 

 

〇まとまって考えたこと

 

1.扉が開くということ

廃墟=”こちら”と”あちら”の境界が曖昧になっている・”こちら”でも”あちら”でもない・”こちら”のものだったのが”あちら"のものになりつつある場所

その中の”ザ・境界”の役割を果たす扉なり門なりが”あちら”と”こちら”を繋ぐ

 

2.閉じるということ

閉じるためには”こちら”(=かつてのこの場所の使用者たち)の声を代弁し、「お返しします」と言わなければならない

 

3.代弁するということ

かつての使用者たちの声を聴く=自我の境界を溶かす・共感の幅を広げる

愛媛では自分の同世代との出会い、自分の同世代が使っていた場所

神戸ではかつて自分がこうであった・これから自分がこうなる世代、親子が使っていた場所(本当はカップル要素も入れたかったかもしれない。性別の幅を広げる意味で。それが兄妹だった理由か?)

そして東京では宗像のじい様との出会いで、ありとあらゆる人々の想いを。

閉じ師として一人前に。

 

4.そして自分と向き合う

※この辺りはまだ消化できていない

他者の声を聴くことができるようになって、はじめて自分を直視できるようになる

缶の蓋(閉ざされていた)→開く→扉を開ける→戸締り(いってきます)

 

学校について

通算6校目、はじめての給料をもらった。

 

部活はバレーボール部と写真部。

 

どちらもはじめてなので割と楽しんでいる。

というか楽しもうと思わないとやってらんねえ。

 

ただ、部活というものの在り方については考えることがある。

 

学校の部活である意味ってなんだ。

 

勝ちたいなら勝てるとこに行けばいいって話ではないことはわかってるけど、やはり勝ちだけにこだわるのはどうかと思う。

文化部にしろ、運動部にしろ。

 

学校ってのは毎日、一歩ずつ自分が進歩できる場所だと思う。

ならクラブも、当たり前かも知れないけど、そういう事をもっと意識的にやったらいいんじゃないか。

その積み重ねの先に"勝ち"があればラッキー、それでいいんじゃないか。

 

てなことを考えている。

 

写真についての複雑な思いをそのうち言語化できたら。

校則について

校則について考えたので、書く

 

校則不要論とかわりと聞く気もする

問題になってることもよくわかる

 

でも校則はあった方が便利よ

 

価値観の多様化が手放しで良いように言われるが、アカン面もあるでしょう

人を殴ることが全てに勝る!なんて価値観は誰がどう見てもアウトよ

 

ようはどこまで許容するか・許容すべきか・許容出来るか

だし

それが社会のレベル→個人のレベルに浸透しなければ意味がない

 

 

そんで、法律さえ守れてればええやんという話もあるが

 

法律守るだけで円滑な社会生活送れます?

 

ってのが疑問なわけです

 

 

明文化されてない諸々を出来るやつのほうが、社会で上手くやれるよな?

 

 

で、校則がない・ゆるくていいのは頭のよい学校だけなんすよ

 

周り見て勝手に学べる

もしくは

家庭教育が行き届いている

からね

 

家庭で基本的なしつけができていなかったり、

周り見て学べない人間には

(そしてわりと多くいる両方ない人間には)

校則っていう”わかりやすい”価値観をちゃんと学んでもらった方が

 

周りのためにも本人のためにもなると思うんす。

 

そして、たぶん、はじめはそういった社会の要請で

校則ってのは作られたはず、はずなんです

 

それが”今の社会”とズレてきてるから問題なのであって、

 

必要な議論は

 

「その学校のレベルに校則がどこまで必要か」

「今の社会の中で生きやすくなる価値観はどんなのか」

※この価値観って表現は自分でもしっくりきていない。HELP。

 

だと思うんす。

 

そこら辺がいまいち共有できてなくて悲しい、というかぶっちゃけめんどくさいなと思う今日この頃。

 

 

あとは、「私学とは」ってのも最近よく考える。

また書く気が起こるかもしれないのでメモしておく。

近況報告

生きている(報告)

 

職場かわった(また)

 

職場で死について考えることがおおくなった

いや、病むとかじゃなくて、だいぶ年上の同僚がおおいので。

 

じぶんちでもそろそろかな、という感じはしている。

 

おれのことをよく知っている人は意外に思わないとおもうが、

じぶんの親の生き死にはわりとどうでもよい。

 

なんなら誰が生きようが死のうが、

あまりこころがうごかないんじゃないかとおもう。

 

漠然とした寂しさを中学生あたりから感じだして、

それを埋めようといろいろやってはいたけど、

埋まらないものだといつしか気づき、

寂しさに慣れたのかもしれない。

 

だからある特定の人とのつながりが永遠に断たれたとしても、

そういうもんかな、

とおもうんじゃないかな。

と、いまのところは考えたりしている。

 

 

それに関連してかせずか、

首都圏に出たい欲が強い。

 

twitterで2回つぶやくほどには強い。

 

 

しかし、現実的に考えてなぁ。

パトロン、というか養ってくれるひとでもいたら勇気はでるが。

転職は慣れたもの、とはいえ、文化の違いは大きそうだし。

もっといえば、就職活動をするカネがないんだな。

 

 

ちょっと前に、

「人生で大事だと思うものに順位をつけましょう」

「そしてそれをグループで話し合い、グループでの順位を発表しましょう」

みたいなことして、

「仕事」「信念」「家族」「健康」「金」「愛」「趣味」「自己実現

について考えさせた。

 

まぁ高校生が考えるもんで、「仕事」と「金」の違いがわかってなかったり。

「家族」が一番とかいうグループも多く、幸せだなぁって思ったり。

 

 

で、手取り年収前年比マイナス100万(たぶん)

のおれからすると、間違いなく「金」やろっていうね。

(前職を離れるときには「信念」(やりがいともいう)って言ってた。青い。)

 

 

ただ、ほんとうの一番は趣味なんだがなぁ。

 

 

そういう面でも、環境をかえたいというおもいが強い。

 

 

ただ、

結局、じぶんが変わらないと根本的な問題解決にはならんのだろうなぁ。

とか

そうはいっても環境は大事やで。

とか

ぐるぐると低回してしまうのだなぁ。

 

 

と、くだを巻く場もないので、久しぶりに書いてみましたよっと。

ゴーツシ

日常が、戻らない。

 

先日梅田通ったときにわりかし行きつけだった店が潰れてた。

 

影響かどうかはしらんけど。

 

 

 

ゴーストオブツシマ、買いました。やっと。

 

ちょっと時間が出来たもんで。

 

 

ゆーちゅーばーにでもなろうかな。

 

目指せメイクマネー。

 

 

生きてますよ。という報告でした。

エアリスの話し方についての考察【FF7R】

おひさ。

日常が戻ったような、戻らんようなそんな世の中に疲れちゃうね。

 

やみのパワーがたまってきたので色々書きたいこともたまってきた。

 

きょうはゲームの話。

 

うろ覚えで書くので違うところがあったらすまん。

 

エアリスの話し方について。


カタコトっぽい、という印象を持った人が多いようで。

軽く調べたところによると、外国人感を出すための設定という説も。
古代種=どこか違う人種
ということの強調ではあると思うが、もう少し掘り下げたい。

 

エアリスの生い立ち・属性について

1.エアリスは物心つく前から母親と神羅に捕らわれていた。

原作の記憶が消えかかっているが、たしかこうだったと思う。
人格形成(言語形成)、この時期、大事。

 

2.母親が実験に連れ出されている間、エアリスはひとりで部屋にいた?

かわいそう。心ある研究員とかいなかったのか。
たぶん母親は研究に協力する代わりにエアリスには手を出させなかったんやろなぁ。涙。
そして、人格・言語形成、この時期、大事。

 

3.母親と部屋にいる間は絵を描くなどしていた。

あの部屋、結構作り込まれてたので、眺めるだけでも楽しい。
一緒に絵を描きながら古代種について語り伝えたんやろなぁ。

 

4. 神羅から脱出。母親と死別。エルミナに保護される。

ただただかなしい。神羅、ガバガバすぎん?
たぶんエルミナの回想シーンもちゃんと見れば考察が深まる点が隠されていると思う。

 

5. 六番街スラムでの生活。

a. エルミナとの関わり

・エルミナ「よく話す子でね」
お母さん(両方)と話す時間が唯一の楽しみやったんやろなぁ。

 

・エアリス「おかあさんの大切なひと(が)」
ここは重要。幼い頃に、格助詞をちゃんと使えている。

 

・星の声が聞こえることは隠していない
上の件で分かっている。

 

神羅の人間に対しては隠す
ロン毛ホクロがやってきた際。経験からなのか、直感なのか、星のこえか。

 

・描かれていないこと
教育は?→ちゃんとした教育を受けていない(だろう)
かといって文法がわかっていないわけではなさそう。(上記)

 

b. 街の人々との関わり

○子供時代-直接描かれていない
・かくれんぼの回想?から、同世代には気味悪がられていた可能性

「星の声が聞こえる」→こどものコミュニティから弾かれるには十分。

 

・リーフハウスには通っていない

孤児だが保護者がいる、ウェッジと年齢が近いはずなのに面識がなさそう。

↳ウェッジの言葉を真似ている?子供がリーフハウスにいるので、彼もリーフハウス出身と仮定して。(ビッグスについてきただけの可能性もあるが)

 

○現在-六番街スラムで同年代に声をかけられる場面がほとんどない

(居酒屋の店主が同世代感ある?)

 

星のこえ


エアリスが聞いている星のこえ、文法がはっきりしているとは考えにくい。
ライフストリームが知識の流れ的なものだとしたら、意識のようなものもないはず。
そもそもエアリスはちゃんと聞き取れてもいないようだし。
言語化できないものが頭に流れ込んでくるイメージ?


言葉にならない(できない)想いがあるとき、

人は文法を意識することができない(あるいは難しい)

 

もしくは、自分という概念が希薄

これまでの人間関係が希薄だと、自分の認識も希薄になる。

より詳しく書くと「自分がどのような人間であるか」がはっきりしない。

人は人を写す鏡というあれ。

 

「私も」は言ってる気がする?
他人「が」「は」は言ってる。

既に書いた「大切なひとが」や「マリンは無事」など。

 

 

FF7Rの最終チャプター

賛否両論ありますね。

ここもプレイしたのはだいぶ前なんで、うろ覚えです。

 

ここでのエアリスは、だいぶはっきり喋ってますよ。

「私は」とかちゃんと言ってた気がします。

 

前の自我の話なんだけど、

「私の欠片が云々……」ってのが案外しゃべり方に関係しているかもしれませんね。

 

フィーラー=運命の守り人

 

それに触れられることで「私」=「自我」が薄れるとしたら

 

運命に逆らう決意をしたエアリスは自我を取り戻し、

同時に正しい話法も戻る。

 

と捉えることもできるような無理があるような。

 

 

というお話でした。

 

ちなみにこの文章も最後だけ敬体にしてみた。