すずめの記事の続き
・いつ缶埋めたか問題
そもそも、絶賛トラウマ中にあんなもん埋めれんやろ、という気がしていたのだが、
会った後やな、あれ。
おそらく無意識的に納得したうえで、幼かったすずめも「いってきます」したんじゃないか。だから、「だいじ」を埋めた。
いまのところこんな風に腑に落ちている。
〇”不在”について
全作品観たわけではないが、”不在”を描く作家ということでいいのだろうか。
自分を(強く)規定してくれる(かもしれない)存在の不在。
むしろ、不在だからこそ自分を強く規定してくれる存在。
何かのアニメで聞いた気がする
「みんな誰かにとっての何者かでありたい」
内田樹も
他者の要請によってしか自分が何者であるかは規定できない
ということを述べている
誰かの・何かの「お前が必要だ」という声を聴く・感じ取ることで
自分が何をすべきかがわかる
キリスト教でいうところの”ミッション”の感覚か。
だからすずめも後ろ戸を閉じた
閉じ師になることを”選んだ”のではなく
目の前に泣いている子供がいたら自然と声をかけるように
自分の子供がないていたら自然と抱き寄せるように
自然とやっていたことではないか。
※「何者であるか」と「何をするのか」は分化したいという立場だがいまはこの表現がしっくりきている。矛盾。これも宿題。
生徒たちが「自分の軸」や「自分の本当にしたいこと」というものが、どこかに”ある”という前提で話し合いをしている姿を目にした。
一見眩しい光景だったが、そんなものなくていいんだよ、と言ってやりたくもなった。