犬氏と病理医氏と家電屋氏の対談を読んで。
読みました。
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さいきん”人格”の使い分け に悩むことが増えた。
正確に書くと、使い分けが”乏しくなった”ことに悩んでいる。
家とはあまり関わらないようにしているし、音楽もつながりが薄れている。
となると”仕事のじぶん”しかいまの俺にはないんだなぁ、と。
これは去年との差もある。
去年は”学校のじぶん”と”会社のじぶん”がおり、
さらに”会社の自分”は”息子としてのじぶん”と”社員としてのじぶん”が混じり合ったものだった。
ここで、”じぶん”という言葉について書いておく。
みずからをわかる
みずからをわかつ
みずからと他者との分離→みずからの理解
よく言われる「人は人を写す鏡」みたいな言葉はこういうことなのかも。
上記の”会社のじぶん”も、自分自身の定義と言うより、”親”=”経営者”の定義のほうが、自分にも周囲にも影響力があった。
専任だった学校でもこれはあったかも。
”学校のじぶん”の中に”生徒に対するじぶん”と”教員のなかのじぶん”がいた。
”教員のなか”というよりは”友人との”の方がしっくりくる気もする。
今の勤め先ではそこまでの関係は構築できていない。
コロナがなければ……
こう考えると飲みニケーションって大事よな。
”職場のじぶん”とちがう人格は職場では出しにくいもの。
で、本題。
電気屋さんは”実際は「孤高」だけど「孤独」なように振る舞ってる”という部分。
これは教師にもあると思う。
まず物理的に。
我々の職業は”独り”で”高い”ところから話をする(ことが多い)
という点。
こういう身体感覚ってけっこう心理的に作用するよね。
個人的には教壇がない方がすき。
(心理的にもだが、軋む音がうるさい。体重のせい?)
そして心理的に。
生徒は生徒の社会を持っているが、そこに属さない者として”独り”であり、
知識や方法を教授する立場としては能力が”高く”なければならない
という感覚。
で、
上から目線ではいたくない。という思いがある
ので、
”孤高”よりは”孤独”のほうが振る舞いやすい
ということかな。
で、
生身でこの振る舞いをすると、病んでいるとか言われるわけで。
いやわかってる。目の前に他人がいるんだから”孤”の方を変えろよってことでしょう。
でもそれは、上手く言語化できないけど、
・教師として
・個人的好みの問題で
できない、しにくいんだよなぁ。なんでだ。
で、
たぶん”孤独な振る舞い”がマッチする生徒とダメな生徒がいる。
これはクラスや学校の違いで割合が大きく変わる。
とあるけど、学習って本来はこうだと思うんですよ。齋藤孝氏も本書いてた気がする。
ところが、最近の風潮や、そもそも物理的(教室の空間に対しての生徒数)なところで
”学習者同士はつながっている”もしくは、そうあるべきだ、という状況にある。
ただその中で、
・学習は独りの問題だという認識を持っている
・クラスになじめない
・その他の要因で孤独感を感じている
ような生徒もおり、上で書いた割合、というのはこのあたりのこと。
今の学校と前の学校で”仕事のじぶん”の振る舞いを変えなければならない、と感じている。
その理由もここにあって
たぶん今の学校の生徒って、幸福感高めなんだよな。
前の学校よりも”孤独な振る舞い”で救える生徒の数が圧倒的に少ない気がしている。
そのあたりで、”じぶん”の使い分けが減ったうえに、今ある面も振る舞い方の調整を強いられていて苦しい、というお話でした。