赤い人のブログ

音楽や、教育、アニメ・ゲーム、その他諸々の記録・整理

犬氏と病理医氏と家電屋氏の対談を読んで。

読みました。

snsiryounokatachi.hatenablog.com

 

 

さいきん”人格”の使い分け に悩むことが増えた。

 

正確に書くと、使い分けが”乏しくなった”ことに悩んでいる。

 

 

家とはあまり関わらないようにしているし、音楽もつながりが薄れている。

 

となると”仕事のじぶん”しかいまの俺にはないんだなぁ、と。

 

 

これは去年との差もある。

去年は”学校のじぶん”と”会社のじぶん”がおり、

さらに”会社の自分”は”息子としてのじぶん”と”社員としてのじぶん”が混じり合ったものだった。

 

ここで、”じぶん”という言葉について書いておく。

 

みずからをわかる

みずからをわかつ

 

みずからと他者との分離→みずからの理解

 

 

よく言われる「人は人を写す鏡」みたいな言葉はこういうことなのかも。

 

上記の”会社のじぶん”も、自分自身の定義と言うより、”親”=”経営者”の定義のほうが、自分にも周囲にも影響力があった。

 

 

専任だった学校でもこれはあったかも。

”学校のじぶん”の中に”生徒に対するじぶん”と”教員のなかのじぶん”がいた。

”教員のなか”というよりは”友人との”の方がしっくりくる気もする。

 

 

今の勤め先ではそこまでの関係は構築できていない。

コロナがなければ……

 

こう考えると飲みニケーションって大事よな。

 

”職場のじぶん”とちがう人格は職場では出しにくいもの。

 

 

で、本題。

 

 

電気屋さんは”実際は「孤高」だけど「孤独」なように振る舞ってる”という部分。

 

これは教師にもあると思う。

 

まず物理的に。

我々の職業は”独り”で”高い”ところから話をする(ことが多い)

という点。

こういう身体感覚ってけっこう心理的に作用するよね。

個人的には教壇がない方がすき。

心理的にもだが、軋む音がうるさい。体重のせい?)

 

そして心理的に。

生徒は生徒の社会を持っているが、そこに属さない者として”独り”であり、

知識や方法を教授する立場としては能力が”高く”なければならない

という感覚。

 

 

で、

上から目線ではいたくない。という思いがある

ので、

”孤高”よりは”孤独”のほうが振る舞いやすい

ということかな。

 

 

で、

生身でこの振る舞いをすると、病んでいるとか言われるわけで。

 

いやわかってる。目の前に他人がいるんだから”孤”の方を変えろよってことでしょう。

 

でもそれは、上手く言語化できないけど、

・教師として

・個人的好みの問題で

できない、しにくいんだよなぁ。なんでだ。

 

 

で、

たぶん”孤独な振る舞い”がマッチする生徒とダメな生徒がいる。

これはクラスや学校の違いで割合が大きく変わる。

 

 

スマホSNSを覗いているとき、人はみんな一人だ

とあるけど、学習って本来はこうだと思うんですよ。齋藤孝氏も本書いてた気がする。

 

ところが、最近の風潮や、そもそも物理的(教室の空間に対しての生徒数)なところで

”学習者同士はつながっている”もしくは、そうあるべきだ、という状況にある。

 

 

ただその中で、

・学習は独りの問題だという認識を持っている

・クラスになじめない

・その他の要因で孤独感を感じている

ような生徒もおり、上で書いた割合、というのはこのあたりのこと。

 

 

今の学校と前の学校で”仕事のじぶん”の振る舞いを変えなければならない、と感じている。

その理由もここにあって

たぶん今の学校の生徒って、幸福感高めなんだよな。

 

前の学校よりも”孤独な振る舞い”で救える生徒の数が圧倒的に少ない気がしている。

 

 

そのあたりで、”じぶん”の使い分けが減ったうえに、今ある面も振る舞い方の調整を強いられていて苦しい、というお話でした。